2016年8月8日月曜日

“日本”と“英語”の関係 後編

Azaです。閲覧ありがとうございます。

チエミ先生の英語
行きます。
昨日の後編
先生のなれそめはいったい…

――――引用ここから―――
その後何度かお茶を飲みに行ったりし、
出会ってから数週間後に、
わたしにプロポーズしたそうです。


そうですってー!!!。
その時点でも、わたしはほとんど、
この人が何を言ってるのか
理解できていなかったというわけです。


ただ、わたしは 
“なんだかちょっと深刻そうだな。

ま、悩みでもあるんだろ。
よくわかんないから、聞いてるふりしよっと。”
 と
言う感じでした。

あー、一生に一度しかないであろう
こんな瞬間を、こんな形で迎えてしまったのね~。と
後から後悔の念は止められませんでしたが。。。。
今となっては良い思い出です(汗)

というふうに、、、(というか、
どういうふうにかよくわかりませんが)、
世に一般的に出ている参考書やネットの教材を
“使えば” 英語の習得につながる。と

思い込んでるのが、わたしたち日本人。
ではないでしょうか。

ではなぜ思い込んでしまうのか。というと、
それは、英会話習得に関し
て日本人はあまりにも盲目的で、
業界自体も成熟しきってしまっているため、

本来必要なことが
見失われてしまっているから
のように思います。

この“本来必要なことが見失われる” と言う傾向は
日本社会ではかなり多いかもしれません。

本音とたてまえの文化の中では、
必要ないとわかっていても
やらないといけない。やるべきだ。
という

風習がありますね。
運動会の開会式でPTA会長や
校長先生の話があまりにも長くて、
本番前にもう具合が悪くなってしまうことがあったり、

家に習字道具があるのに、
学校で、みんなと同じものを買わないと
いけないような見えないプレッシャーを感じたり、
“実用性に欠く” ことは日々あるかもしれません。

会社の朝礼で大きな声を張り上げて
社訓を読むのも、外の国から見たら、
“不必要”に見えるかもしれません。

この“実用性に欠く”習慣は外国語、
特に実用性と合理性のもとにできている
英語の習得には大きな妨げになってしまいます。

その国の言語と風習、習慣は
切り離せません。


実用的で合理的な社会では、
そのような言語形態ができるわけで、
ということは

日本語と言う言語は、
日本の風習を反映してできているため、
かなり英語とはかけ離れた概念である。

ということを知ることは、
実は英語習得の大きな助けになると思っています。

近年、中、高校での英語の授業が見直され、
“コミュニケーション重視”となり、
特に高校では英語で英語の授業をする。
ことになっているそうです。

そんな授業風景を
ユーチューブなどでも公開されていますが、
それはあまりにも、あまりにも、
先生たちが大変そうで、
あまりにも、無理があるように見えます。

ある高校の英語の授業で、
先生はすべての指示を英語で出さなければならないため、
“Come here,write it, make groups ” のように、
文章ではなく、“単語だけ” で
すべての授業が行われていました。

英会話習得中の皆さんなら
お分かりだと思います。

英語は、主語、動詞がないと
文章は成り立ちません。
(日本語とは違うということです)


それを日本語の感覚にのせて、
単語だけを英語に訳している状態が、
このような状態です。

英語が話せなくても
英語の先生にはなれるわけですから、
先生側にとっては“話が違う”
労働環境におかれてしまっているため、
無理もありません。

また、ある中学校の授業では、授業のはじめに
先生:How are you everyone ? 
生徒:I'm happy, I'm sad。。。。。。

のように答えるように指導され、
また、先生が、Sit down please
といったら、Yes! と
全員が大きな声で答えましょうと
習っていました。

(英語のYesを日本語の“はい”に
置き換えることはよいことではありません。
意味は通じていますが、
英語のルールと日本語のルールは違いますね)

これは日本語に置き換えると
あまり抵抗はありませんが、
英語という言語を

“日本語で行う行動”に置き換えると
あまりよいことはありません。


“英語は英語の波動” を守らないと、
波動同士がまったく共鳴しない
ので、
インドのカレーが日本のカレーになってしまうように、
“別物”になってしまいます。

すると、ネイティブとのコミュニケーションには
役立たなくなります。

英語を話すときは、
日本語のときよりも身振り手振りが大きくなったり、
表情が豊かになることがとても自然です。

それは英語はリズミカルで、
母音と子音が入り組み、音に深みが出るため、
抑揚がついて同然だからです。

一方、日本語はとても平坦にできています。
体は自然には動かないものです。

面白いのは、先に、
身振り手振りをちょっとネイティブのように。と
意識してみると逆に

英語がよく出てきたりします。
これをわたしは波動の共鳴
ネーミングしています^^。

日本の文化はとても奥深く、独特で、
他の国にはまねできないものがたくさんあると思います。

われわれ日本人の誇りですね。
歴史的にも閉鎖的だったかもしれませんが、

外から入ってきたものを
自分たちに合うように加工することが
とても得意です^^。

食べ物でもなんでも。
ワイシャツがなぜワイシャツと呼ばれるか?は
聞いたことがある方も多いと思いますが、

White shirt が日本人にはワイシャツに
聞こえたのですね^^。

車の部位などはある部分はイギリス英語だったり、
ある部分はアメリカ英語だったり。

洋食の料理の名前はほとんどが
フランス語から来てるのだと思いますが、
それ自体にも気づかずに使っていたり。

(昔、わたしの祖母は、大学生だったわたしに、
ビーフシチューって英語でなんていうの?と
聞いてきたことがありました(笑)
もう、これを日本語だと疑っていなかったわけです。)

残念ながら、学校での早期の英語教育は、
わたしがいつもレッスンで言う
“英語の回路”をむしろ早くから
めちゃくちゃにプログラミングしてしまうことになります。

シンプルにまず、“英語でコミュニケーションを取る”ことを
文部科学省が重視したいのであれば、
“英語でコミュニケーションが取れる人”を
先生にしなければならないと思います。


そうでないと生徒側も先生側も
苦しくなってしまうと思うのです。

ただ、そうは言ってもねー。と
本音とたてまえが顔をだし、
真髄を追求した合理的な動きには
ならないんだろうな。というのもよく伺えます。

今、振り返ると、自分自身、
“学校であのような習い方をしなければ、
もっと早く英語を
話せるようになっていたのでは”と思います。

また、多くの方とレッスンする際も、
もしかして、学校で一切英語の授業をやらないほうが、
早道なのでは?
と思うこともよくあります。

実際に、小さなお子さんなどは、
英語の波動で英語を習得することが容易ですが、
中学校で英語の授業が始まったとたんに、
日本語の波動で英語を習う。ことになってしまい、
そこから先はテストのための勉強になってしまいます。

極端な発想ですが、学校での英語の授業を
すべて外部委託して、
英語で生活している人に英語を習う。

ようにすることで、
日本独特の英語習得法を避けたほうが、
いろいろな意味で成果はあると思うのです。

レッスン後に、“目からうろこが落ちました”
と言う感想をたくさんいただく。と前回書きましたが、

ある生徒さんは先日“すごい!呪縛が解けました” と
おっしゃっていました。

そう、学校ではいろいろな呪縛
(英語のルールを日本語に乗っけて解釈する)を
かけて英語を教えてしまうですね。

その呪縛がとけたらもうこっちのもの。
すんなりと英語の波動に
のっていけるのではないでしょうか。

――――引用ここまで―――
チエミ先生のブログ
『大人になってから
英語を話せるようになるために』
http://blog.livedoor.jp/chiemi_uk/

前半のなれそめいい話から,
日本での英語教育の
マイナス面の分析まで,

盛りだくさんでした。
あなたの英語の呪縛
解けそうですか?

質問,意見や感想などお待ちしています。
最後まで読んでいただき,ありがとうございました。
Aza

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